妙泉寺の歴史・沿革

宗派 法華宗(本門流)
本尊 南無妙法蓮華経 久遠常住輪円具足
開山 日運上人 文亀元年(1501)

由緒・沿革

妙泉寺室町時代、法華の僧日運上人は駿河の国(静岡県)愛鷹山の麓、阿野庄の地に法華宗の題目布教をしていましたが文亀元年(1501)庵を結んで道仙庵と称しました。やがて信徒が群集して永正2年(1505)近隣の興国寺城拡張のため東へ向い約1㎞の青野上岡の現在地に寺地を移し、泉の涌く勝地に堂塔を建立し青野山(おおのさん)妙泉寺と称しました。旧地は、今日に道仙林として名をとどめています。

永正14年(1517)書写された開山日運上人の御本尊は寺宝です。「青埜山」の文字は地名青野の最古の記録です。

永禄6年(1563)には駿河領主今川氏真公より寺領安堵の判物を受け今日に伝えています。江戸時代初期、大本山光長寺十八世日達聖人は当山を訪れ、当山に竹木を植える事が大切だという書状を残され、代々樹木を守り今日の緑の森を形成して参りました。第九世日蔵上人は西椎路の地に延宝年間に末寺を開き法蔵院を建立。この地はその昔鎌倉時代、日蓮大聖人の信徒で豪族の椎地四郎常照の持仏堂の旧跡です。「椎地」の地名は源頼朝の富士巻狩の折、椎の実が頼朝の頭を打ち、「花は咲けども実はなるな」と言った椎の実の故事によるものです。

十二世日清上人は宝永2年(1705)番神堂、宝永7年(1710)鐘楼を建立。元文3年(1738)当山仏像を仏師玉置五郎吉が造立。宝暦5年(1755)庫裡再建。寛政3年(1791)、日■(■旧字、ゆう:美の大の字が久)上人は本堂再建。堂塔も整いましたが、文化9年(1812)の火災で全山烏有に帰してしまいました。その後二十四世日就上人は18年の歳月を費して文政11年(1828)諸堂を復興。安政3年には当地大名大久保長門守殿より松永陣屋の表門を拝領し当山の山門といたしました。

幕末の安政年間には原の宿信徒、増田平四郎翁は信心篤く当山二十六世日布上人の協力を得て、水害多き浮島沼を広大な田地に変える新田事業計画を発願し、江戸幕府老中や奉行に再三の直訴を敢行しましたが援助を得られず、30年に及ぶ辛苦の末、寺院の協力と平四郎の後援者の自力開発という形で大規模掘割工事がすすめられました。慶應2年(1866)完成を目前にするも強烈な台風の来襲により惜しくも崩壊。結局数年後に浮島沼に田地が出現するという結果をもたらし、昭和第一放水路の基礎となったのです。

明治に入ると新政府の廃仏毀釈という無謀な政策により当山は多くの寺領を強制没収されました。
末寺法蔵院は破却という被害を受け苦難の時期を忍んで参りました。

明治時代、中期には信者の組織「八品講」が立上がり、地域おこしの先がけとなり地域振興に銀行を創立した岡野喜太郎翁も当地より立ち上がりました。戦中戦後を通し苦難の時代は長く、梵鐘等仏具供出や農地開放の苦境を経て参りました。昭和49年七夕豪雨の被害と近年新幹線振動被害の為当山の根本的復興を計画し昭和56年本堂・庫裡再建を成就。昭和63年には宝物資料館を建立し、同館に『緑と歴史を守ろう会』を置き、歴史資料の保存と展示、自然環境を守る活動を行っております。

平成5年山門建立、倉庫(書庫)建立、廃寺となった末寺法蔵院を平成13年には復興して法蔵院教会を建立いたしました。

「いつくしむ命」をテーマに心の蘇生を求め、自然環境の蘇生を求め今日の立正安国をめざして居ります。